「明日への遺言」
公開中の映画「明日への遺言」が話題となっています。第2次世界大戦中、名古屋空襲で無差別爆撃を行った米軍の搭乗員を処刑した罪に問われ、戦犯の裁判にかけられた岡田資・中将の物語で、主演の藤田まことの迫真の演技が感動を呼んでいます。岡田中将は、無差別爆撃の非を訴え、19人の部下の命を守り、すべての責任を背負った。
私も先日の試写会で、この映画を見る機会を得ました。米軍の無差別爆撃そのものが国際法に違反している(もちろん東京大空襲も原爆投下も同じ)、だから米軍搭乗員の処刑は戦争犯罪ではないのだ、と主張します。岡田中将も「これは復讐ではなく、処罰であります」と繰り返します。中将はこの法廷闘争を「法戦」と称し、本土防衛作戦の延長ととらえていた。岡田中将の有名な言葉があります。
「敗戦直後の世相を見るに言語道断、何もかも悪いことはみな敗戦国が負うのか?なぜ堂々と世界環視のうちに国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、また重大なる戦因なりしことを明らかにしようとしないのか?」
戦犯法廷の被告は岡田中将です。その被告が堂々と、米軍の無差別爆撃こそが戦争犯罪である、米軍こそ裁かれねばならない、だから処罰は正当であると主張する。
その上で、岡田中将は自らの責任を回避しようとはしなかった。
「責任の筋をたどっていけば、当然、司令官たる自分のところへ来るでしょう。部下が行ったすべての行為について責任を取るのは、司令官である自分であります」
つまり信念と誇りをもって、主張すべきは堂々と主張し、責任は取る姿。この映画は、そうした岡田中将の生き様を映し出しています。映画の原作者である小説家の大岡昇平氏は、岡田中将について、「戦後一般の虚脱状態の中で、判断力と気力に衰えを見せず、主張すべき点を堂々と主張したところに、私は日本人を認めたい。少なくとも、そういう日本人のほか、私には興味がない」と書いています。
映画では、中将の妻を演ずる富司純子が、ほとんどセリフらしいセリフもなく、表情やしぐさだけで、夫を信頼し、銃後の守りに徹する妻役を好演していたのが印象的でした。その妻に岡田中将は最後に「本望であった」とだけ、声をかけます。
国会は野党の審議拒否で、参議院での空転が続いています。一国の首相が、委員会室で手持ち無沙汰に待っているなんて、そんな国がどこにありますか。無責任の輪が広がっているようです。事務方トップがゴルフ三昧だった防衛省。あまりにずさんな年金管理を続けた社会保険庁。道路予算を自己増殖に使って恥じない国土交通省。そんな折、薬害エイズ事件で厚生省(現・厚生労働省)の元・生物製剤課長の有罪が確定するとのニュースを聞きました(3月3日付で最高裁が上告棄却の決定)。
例えば、ずさんな年金記録の管理を続けていた社会保険庁でも、誰にその責任を問うべきか、となると難しい。毎年、人事が繰り返される役所に対して、過去の不作為の責任を追及するのも大変だし、まして特定の個人の刑事責任を問うことは、あまり例がありません。だから役人は絶対に責任を取らない。その意味で、今回の最高裁の決定は、官僚組織への警鐘となるはずです。信念を持って主張する。しかし責任はしっかり取る。いまの日本に、岡田中将のような「国士」が必要です。
[ 2008年03月05日 ]
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