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GAKU論

拓銀破綻から10年

 11月17日というと拓銀の命日という印象です。ちょうど10年前の平成9年11月17日の早朝。議員宿舎で寝ていた私は、道新の小林記者の電話でたたき起こされました。「拓銀がやっぱり破綻しました。受け皿は道銀ではなく、北洋です」。その前の週、小林記者と拓銀が危ないぞ、という話をしていたばかり。この年の春、拓銀と道銀の合併構想に始まり、合併の破談、信用不安とエスカレートし、ついに破綻という最悪の結末を迎えました。10周年ということで、各紙が特集記事を組んでいます。当時、初当選からまだ1年の私は、拓銀破綻という緊急事態に接し、破綻処理という大仕事の一翼を担うこととなります。 たまたま読んだ月刊「クオリティー」12月号の座談会「拓銀破綻から10年」で、稚内信金の井須会長と北洋銀行の高向会長が次のように語っています。



井須「あまり知られていないが、拓銀破綻2週間目くらいの時に、自民党政調会の中に北海道金融不況対策小委員会が出来ました。この小委員会は、拓銀問題について集中的にいろんなことをやっていったのです。スキームがないしルールもないところでやるのですから、どんなことになるかわからなかった。北海道は目茶苦茶にされたかもわからなかった。それをきちっと止めたのが、この自民党の小委員会で、事務局長が石崎岳さんでした。お世話になりました」
高向「小委員会は非常に役に立ちました。北海道からお願いして作っていただいたのですが、灰色債権の引き受けをするに当たって、引当金付き買い取りというのを考えついたわけです。今では当然の如く破綻処理で全部やっているけど、それを最初に理解してくれて大蔵省に対して説得をしたのが、この小委員会です」


 私の名前を紹介していただき、10年前にタイムスリップするような気持ちです。当時の自民党道連会長の中川昭一代議士からの「拓銀問題の窓口は、お前がやれ」との一言で、すべてが始まりました。この10年、私の心の中で絶えず、あの拓銀破綻は、何だったのか、という問いが間欠泉のように湧いていました。10年前の11月17日早朝の小林記者の電話で私は「これは大変なことになるな」と予感しました。当時も預金保険はありましたから、預金者は保護される。しかし北海道で商売している借り手企業はどうなるのか。これが最大の問題でした。
 破綻処理のスキームなんて、なかった。すべてが手探りでした。受け皿となった北洋銀行は堅実経営で知られており、だからバブルの影響が少なかった。バブルに踊らされ、特にバブルが崩壊してから、バブル的投資をしまくっていた拓銀とは対極にあります。それはいいとして、北洋が灰色債権を全く受けないとなると、北海道の経済はガタガタになる
 様々な案件が党の小委員会に持ち込まれました。私が担当になると、うちの会社をなんとか助けてくれ、という個別具体的な要望が、連日舞い込みました。大所は「地崎工業」「丸井今井」など。当時の地崎社長は、しょっちゅう私の事務所に来ていました。上記の引当金付き買い取り、というスキームは、当時、大蔵省との折衝の中で、徐々に確立していった仕組みでした。拓銀の債権を北洋が引き継ぐ際に、そのままではリスクがあり、引き継げないから、リスク度に応じて公的資金による引当金をセットで北洋に継承してもらう、という考えです。正確な記憶はありませんが、たしか地崎債権は引当率8割くらいで引き受けてもらったのではないか。8割といったら、ほとんど破綻先債権です。北海道は未曾有の経済危機でした。だから、このような「無理」が通ったのかも知れません。しかしその後の経過を見ると、結局、地崎も丸井も、そのままでは生き永らえなかった。いま地崎は岩田建設と合併し、丸井は本州大手の資本支援を受けています。
 拓銀破綻関連で思い出すのは、道内のいくつかの信用金庫が拓銀の劣後債を抱え、これらが紙くずになると、連鎖破綻を起こしかねない危機だったことです。劣後債は資本に準ずる位置づけですから、紙くずになった拓銀株と同じような運命をたどってもおかしくありませんでした。しかしそれでは、道内の信金が危ない。私は大蔵省と掛け合って、劣後債を保護する処理を実現しました。道内の信金からは、今でも感謝されています。
 さらに拓銀抵当証券の問題がありました。預金は保護の対象ですが、抵当証券は対象外です。当時、退職金すべてを抵当証券につぎ込んだ人がたくさんいました。抵当証券は、拓銀の窓口で、拓銀の商品と同じように販売されていましたから、購入者は保護されないものとの認識はありませんでした。この問題は、預金保険機構との戦いでした。裁判にもなっていましたが、高齢の原告が一人、また一人と亡くなっていく状況の中で、一日も早い解決が望まれていました。
 裁判長は90%保障の和解案を提示、これに対して国は80%を主張しました。私は密かに弁護団と折衝し、「何%なら、折り合えるのか」「最低限85%です。それ以下では、原告から一任は取れません」「よし、わかった」。
 そして私は預金保険機構の担当者を呼び、「いつまで和解を拒否するんだ。これ以上の裁判長期化は、政治問題化する。最低ラインが85%だ。80%が85%になったからといって、大きな問題になるのか」と詰め寄り、結局、85%保障で決着しました。
 平成10年3月に、小委員会は中間報告をまとめましたが、その文章は私が書き、それがそのまま、政府の経済対策に反映され(この時の経済対策に「北海道経済対策」の一項目が入ったが、私の書いた文章がほぼそっくり使われた)、補正予算として肉付けされました。当時、北海道経済への緊急対策として、かつてない公共事業も予算化されましたが、それが今になって、道の財政赤字の原因となっていることに、忸怩たる思いです。当時はそれ以外に方法がなかった、しかし今は大変な後遺症をもたらしている。政治は本当に難しいものです。
 拓銀破綻とは何だったのか、今でも考えの整理がついていません。あの時、破綻を回避する方法はなかったのか、という問いが繰り返し、頭に浮かびます。この事件は、北海道経済の弱さを白日の下にさらし、10年たった今も、その弱点は克服されていないことは確かです。私の政治活動のひとつの重点は、北海道経済の再生ですが、まだまだその目標が達成されていないことを、11月17日の命日にかみしめています。

[ 2007年11月17日 ]


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