久間発言の波紋
久間防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」と言って、辞職しました。発言自体は、弁解の余地ないもので、ベテランで政治的嗅覚も鋭い久間氏が、なぜあのような発言をしたのか、首をかしげてしまいます。2年前、郵政政局の折、当時、党の総務会長だった久間氏は、郵政民営化反対の大合唱だった総務会の運営を、神業のような手練手管で乗り切りました。私は一総務として、老練な久間氏の政治テクニックを、感慨をもって見ていました。政治のひとつの神髄のようなものを、当時感じました。いわばプロ中のプロ政治家たる久間氏が、参院選直前で、しかも年金問題で窮地にある安倍政権の足を引っ張る、いや極端にいえば、ダメ押しするような問題発言を、なぜするのか、全く理解できません。
私は日曜日のある会合で、「これだけ逆風下で、久間発言の影響を止めるには、安倍首相が久間大臣を更迭するしかない」と発言しました。原爆投下を容認するような意見は、平和の党を標榜する公明党が容認するはずもなく、久間大臣がその職に留まれる可能性はないと感じたからです。それなら安倍首相が久間氏を解任することで、はじめて悪い流れを食い止められるとの直感でした。しかし事態は、松岡大臣の時と同じように、安倍首相が久間大臣を厳重注意し、かばい、なんとか乗り切ろうと画策しました。もちろん、政権を運営する首相の気持ちは、我々下々が伺いしれない、重いものがあるはずですが、安倍首相としては松岡大臣をかばい、失敗した学習効果が、あまりにもなさすぎた。
終戦直前の様々な出来事、例えば原爆投下やソ連の参戦、和平工作などに対する歴史の評価は、現在でも大変難しく、デリケートな問題です。ひとりの歴史家、評論家が自己の見解を述べるのは自由ですが(もちろん、政治家の発言も自由です)、政治家の発言は政治的な影響を考慮しなくてはならない。先日の党首討論で民主党の小沢党首は安倍首相に対して、原爆投下について「アメリカに謝罪を求める考えはないか」と詰問していました。安倍首相は「(小沢氏が)自民党幹事長時代に、当時の首相に、そのようなことを求めたことがあるのか」と色をなして反論。核武装を目論む北朝鮮に対して、日本がアメリカの核の傘の恩恵を受けざるをえない実情もあることを訴えました。
選挙前だからといって、このような国家の安全保障の琴線に触れる問題を、このような低次元の議論で進めていいのだろうか。小沢氏は、もし自分が首相だったら、そのような行動をとるのだろうか。ヒラの一議員だったら、例えば先日のアメリカ下院の委員会における慰安婦批判決議に対して、それではアメリカの原爆投下は正当化されるのか、あれだけの非戦闘員を一瞬に殺戮することが正当化されるのかと問いたい。アメリカでは、60年以上前の慰安婦問題をほじくり返して、現代の議会で日本を糾弾する。一方の日本は、現職の防衛大臣が、原爆投下はしょうがないとうそぶく。彼我の違いの大きさに、あきれるばかりです。
歴史問題に対する政治家の発言は、歴史についての深い認識と洞察に基づいたものでなければなりません。原爆投下の歴史的な意味合いを客観的に評価することは、大きな議論になるテーマですが、政治家(まして長崎の政治家)が他人事のように原爆投下の意味合いを論評することは何なのか。老練な政治家として、安倍内閣でそれなりに存在感を発揮してきた久間氏とは思いますが、今回の発言を聞くと、もう現在の日本政治にはそぐわない存在になったとしか思えません。
[ 2007年07月03日 ]
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