危険なアジテーション
憲法改正の手続きを定めた国民投票法が、ようやく成立しました。憲法施行から60年。気の遠くなるような歳月ですが、憲法を取り巻く状況は戦後、薄皮を一枚づつ剥ぐように、徐々に変化してきました。そしてようやく憲法に関するタブーも、なくなりかけてきました。そんな折、時代の変化にオンザロックの冷や水を浴びせるような論調に接しました。5月16日、北海道新聞夕刊に掲載された作家の高村薫氏の「時評・社会」です。
『憲法施行60周年の今年、これまで現実になるとは思いもしなかった国民投票法が14日、成立した。安倍政権の憲法改正のかけ声は、いまや「嘘のようなほんとうの話」になりつつある』
高名な作家である高村氏の文章は、時々道新に掲載され(他紙では、ほとんど見かけないが)、その主義主張は別として、小説家らしい、鋭い政権批判を、必ず読むようにしてきました。しかし、今回の文章は余りに感情的で、いただけない。
『この60年、私たちにとって憲法は、ほとんど空気のようにそこにあり、時代に合うか否かを考えることもなかった』
そう、空気のようであったかも知れないが、時代にそぐわない部分を感じ、改正の動機を高めてきたことも事実です。
『一握りの政治家が改正を目論み、その一人が政権与党の総理総裁になったことで、ある日突然、政治日程に上ってきたのである』
憲法をめぐる議論は、この10年間、「一握りの政治家」だけでなく、野党を巻き込んだ形で積み上げられ、相当成熟してきました。憲法改正を目指す政治家は、民主党にも多数います。また自民党の累次の政権公約にも、憲法改正は謳われてきており、「ある日突然、政治日程に」上ったわけではありません。
『首相や閣僚は憲法の遵守を義務づけられているのだが、その彼らが率先して憲法改正を叫ぶのは、明らかにおかしい』
この点もよく取り上げられる論点ですが、総理大臣は同時に政党の党首であり、その政党が憲法改正を政策に掲げていれば、党首が憲法改正を主張することは、問題ありません。憲法を守ることと、憲法改正を主張することは、なんら矛盾しません。憲法に限らず、政治や行政は法律一般を守らなければなりませんが、だからといって、政治や行政が法律改正をしてはだめ、とはならないでしょう。
また高村氏の文章には、「私たち」「国民」「大多数」といった言葉が散見されますが、きわめてパーソナルな高村氏の意見を、国民大多数の意見であるごとく普遍化しようとする詐術が垣間見えます。高村氏の意見イコール国民の意見、自民党は反国民というイメージを、読むものに植えつけます。
『私たちの多くは、現行憲法がGHQに押し付けられたものであるか否かを、重要な問題とは考えていない』『国民は、とにかく素直に平和憲法を喜んだのであり』『私たちには、いま憲法を変えるような理由があるか』
そして『自民党は、日米同盟強化のために何としても自衛軍を保持したいらしい』と語り、問題を9条改正に矮小化して批判を続けます。感情的で、表面的で、一方的で、ヒステリックな文章。これは国民投票法の内容や成立の経過などを批判した時評などではなく、なんとしても改憲を阻止したい、という思惑が露骨に表れた、きわめて政治的なアジテーションです。こうした文章を公器たる新聞が、無批判に掲載することは、メディア自体が極めて濃厚な、同質の政治的意図を持つと思われても仕方ありません。健全な他紙は、高村氏の危険な思想を、生のまま取り上げることはしないでしょう。
日本国民はこれまで、民主的プロセスを経て、憲法を作った経験がありません。明治憲法は欽定憲法でしたし、現行憲法は占領下という、極めて異常な状況で、GHQの主導により制定されたことは、疑いようがありません。憲法を作ることは、国民が、この国のかたちを考えることであり、日本のアイデンティティーを共感することです。軍国の時代、戦後の経済一辺倒の時代を経て、今の日本は、新たな価値観の時代を迎えています。そうした時代の変化を受けて、憲法に新しい国柄を書きこむことは、大きな意義があり、日本の民主主義にとって、最良の機会となります。政治は、その機会を国民に提供する責任があります。民主的に憲法の改正を成し遂げることで、日本はようやく普通の民主主義国家になると言えるでしょう。憲法タブーが消えつつある今、大切なことはフランクな国民的議論を奨励することであり、先祖がえりのような、タブーを復活させることをメディアが企図することであってはならないと確信します。
[ 2007年05月17日 ]
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